『社会は存在しない』への書評をありがとうございました。


 『社会は存在しない』が発売されてから、早いものでそろそろ3ヶ月が経過しようとしています。その間、お読みになった方々に、数々の感想や批評をいただきました。
 「CINRA.NET」ではイベントの模様も紹介いただいています。
http://www.cinra.net/interview/2009/08/26/000000.php


 なかでも、直近では紙媒体で『社会は存在しない』を取り上げていただいた事例もありました。
 今回のエントリでは、そちらを紹介させていただくとともに、感謝の意を籠め、提案いただいた問題系について若干の応答をさせていただければと思います。
 なお、蛇足ながら書き添えておきますと、党派や派閥としての「限界小説研究会」の意見ということはまったくなく、あくまでもいち執筆者としての私「岡和田晃」による応答であることをご了解下さい。

社会は存在しない

社会は存在しない

松坂健氏への応答


 『ミステリマガジン』2009年10月号の、「ミステリ・サイドウェイ」にて、松坂健さんに「ミステリの基礎研究に欠かせない本」として、『社会は存在しない』を取り上げていただきました。

ミステリマガジン 2009年 10月号 [雑誌]

ミステリマガジン 2009年 10月号 [雑誌]

 まずは、「ミステリマガジン」の担当者の方、ならびに松坂さんには厚く御礼を申し上げます。数多の新刊から『社会は存在しない』をお選びいただきまして、まことにありがとうございました。


 松坂さんからご呈示いただいた問題系は、大きく二点に分けられると思います。まず第一は以下の点でしょう。

 「推理」が「セカイ」と対決する有効な武器とされる(金田一少年、コナンを見よ)から、その意味でミステリの一部がセカイ系に回収される面もあるとのこと。(松坂2009)

 主に推理を武器に「セカイ」に立ち向かおうとする事例は、笠井潔さんが「セカイ系と例外状態」という論文で語った頭脳バトルものの少年マンガの文脈でした。
 ただし、笠井論文では、例えば『金田一少年の事件簿』のような頭脳バトルものの少年マンガの延長線上には『DEATH NOTE』が置かれ、そこから決断主義と例外状態といった問題系が語られます。それゆえに推理を軸に理解するのであるならば、推理の背景にある社会情勢が「セカイ」化しつつあるという具合に読むこともまた、可能なのではないかと考えます(いわゆる「『容疑者X』論争」をミステリ畑の具体例として提示してもよいかもしれません)。
 こうした感覚は、90年代に10代を過ごし、最も多感な時期にオウム真理教阪神大震災を経験した者にとっては暗黙の前提ともなっているものであり、それゆえ、ミステリではいわゆる「脱格系」のように「セカイ」をリアルなものとして捕らえる感性が勃興してきたのではないかと思います。
 そのうえで、私が「脱格系」についてどのように捉えているのかということについては、拙稿をご覧いただければと思います。



 僕は「セカイ」の対立語には社会ではなく、「セケン」を置けばいいと思うのだが、どうだろう。(松坂2009)

 「セカイ」がごく日本的に特殊な事例であるのならば、「セケン」という呼称も機能すると思います。その点は、松坂さんの非常に鋭いところではないかと私は思います。
 しかしながらまた一方、経済のグローバル化とともに「ジャパン・キッチュ」が拡大している状況を見ても、あるいは歴史を一種の反復として捉え直して見たとしても、90年代以降の日本の文化圏を支配しているある種の想像力と、その想像力を生み出している土壌が、必ずしも日本的に特殊な事態ではなくなってきているのではないかと思うわけです(例えば、アニメを離れても、村上春樹が世界中で読まれ、訳されているような現状を挙げてもよいでしょう)。「セケン」のみに留まらず、やはり「社会」という言葉にまで敷衍して考える作業がどうしても必要になるのではないか、とも思えてならないのです。お答えになっておりますでしょうか。


 ともあれ、松坂さんには『社会は存在しない』を概して好意的に読んでいただいいたようで幸いです。
 もしよろしければ、お時間の許す際にでも、私の応答をふまえたうえで再読をいただければ、新しい発見があるものと思います。

福嶋亮大氏への応答

 続いて『新潮』の2009年10月号にて、福嶋亮大さんhttp://blog.goo.ne.jp/f-ryota/e/8e36c5aebed6a689f1146cdb431f0acdに「セカイ系評論と決断主義」というタイトルで詳しい書評をいただきました。

新潮 2009年 10月号 [雑誌]

新潮 2009年 10月号 [雑誌]

 「新潮」編集部の皆様、並びに福嶋さんへは厚くお礼を申し上げます。数多の新刊から『社会は存在しない』をお選びいただきまして、まことにありがとうございました。「四十日と四十夜のメルヘン」や「クレーターのほとりで」を世に出すという果敢なる選択を取られた「新潮」の誌面で書評をいただけるとは、まさに望外の喜びです。
 それゆえ、僭越ながらこの場を借りまして、書評への応答をさせていただこうと思います。


 福嶋さんは主に『社会は存在しない』を「ゼロ年代の想像力」との対比で捉えていらっしゃいます。そして、『社会は存在しない』に収録された論文は、「『ゼロ年代の想像力』が取り上げた「決断主義」的な主体像への傾斜が目立つ」とまとめられた上で、カール・レーヴィットロマン主義(「一切の外的要因がないかのように場当たり的=機会主義的に振る舞うこと」=「機会原因論」)批判を援用され、「決断主義的=ロマン主義的な調子の論文を多く含んでいる」との具合に、『社会は存在しない』に収録された個別の論文への批判へと評を進めます。
 福嶋さんが『社会は存在しない』所収の論文に具体的な批判を展開されているのは、以下の部分になるでしょう。

 たとえば、「例外状態」(カール・シュミット)における物語性=社会性なき犯罪者に目を向ける物語性=社会性なき犯罪者に目を向ける笠井潔は「宇野がカテゴリー的に分割する「セカイ系」と「決断主義」の潮流は、社会領域が消去されている点で、いずれもセカイ系的である」と明確に記す。あるいは、あらゆる物語を解体する「矛盾の運動性」を佐藤友哉の小説に見る藤田直哉も、すべては主観的に操作可能な誘因にすぎないと考える決断主義者=オケイジョナリストとほとんど見分けがつかない。さらに、セカイ系を資本主義の「奴隷」と見なし、それに対抗する「生存の領域」を青木淳悟に見出す岡和田晃や、相米慎二岩井俊二に「一元論的な生成空間」にも似た映像美の系譜を発掘する渡邉大輔も、それぞれに主張は異なるように見えるが、要は物語や意味の縛りを捨てて、美やアイロニーと一体化しようとするロマン主義者であることは共通している。
 どのみち、今の日本では「物語」の選択はほとんど任意的・趣味的なものとなっている。であるから、物語性や思想性を放棄し、崇高のイメージで一発キメている作家を評価するという単純な評論が出てくるのは、別に不思議なことではない。どういう物語を選ぼうが、とにかく派手で実効的な「決断のゲーム」をぶりあげられればそれでいいわけだ。もとより決断主義というのは、デリダが『友愛のポリティックス』で示唆したように「人間的生」にすべての照準を合わせた思考であって、そこではデリダふうの繊細な幽霊は吹き飛ばされている。四の五の言わずにとりあえず生に向けて決断すること、それが『ゼロ年代の想像力』以降のパラダイムであり、本書の論はそれを美学化している。(福嶋2009)

 ここに示された要約と批判には――自分が批判されているということを脇に置いても――疑問が残ると申し上げておきます。
 まず、福嶋さんは「新潮」2008年10月号に記載された、宇野常寛ゼロ年代の想像力』への書評で「人生論化する批評」と題し、『ゼロ年代の想像力』を「決断主義」というよりもむしろ「人生論」という側面で批評されていたように記憶しておりますが、なぜ『社会は存在しない』を論じるにおいては、『ゼロ年代の想像力』の「決断主義」=「四の五の言わずにとりあえず生に向けて決断すること」的な側面が取りざたされるのかがよくわかりません。ご自身の論調を修正されたのでしょうか。いくら何でも、「人生論」=「決断主義」ではないと思いますが……。


 続いて、批判の核として使われているカール・レーヴィットの言う「機会原因論」については、カール・シュミットの『政治神学』(田中浩/原田武雄訳、未来社)の日本語版に併載された「シュミットの機会原因論的決定主義」(1960、日本語版は1971)の主張に依拠されているのではないかと思いますが、やや用法が荒い気がします。ここでレーヴィットが使ったとされている「機会原因論」という言葉は、レーヴィットの批判の対象となっているシュミット自身が、著書『政治的ロマン主義』(1919)の第2章において、フリードリヒ・ゲンツ、アダム・ミュラーなどの、いわば通俗化したロマン主義を政治的に援用し大言壮語と日和見的な行動を同居させた活動家たちの姿勢を、批判的に総括する意図をもって用いていた言葉であるという指摘が抜けているのではないでしょうか。
 シュミットは政治的ロマン主義者たちの姿勢を、政治的・実在的中心を欠いたものでしかないと辛辣に批判するとともに独自の「友−敵」理論を打ち立て、国家というものは体制を揺さぶる類の「例外状況」に対処できなければならない(その際には、「法」の停止すら容認される!)というところから、こともあろうに、民族ロマン主義の鬼っ子ともいえる、ナチス体制を擁護することになってしまったのでした。
 そしてレーヴィットは、そのように機会原因論者とロマン主義者を批判するシュミット自身が、機会原因論的であると喝破したわけです。しかしその際にレーヴィットは、シュミットが『政治的ロマン主義』を書いたヴァイマル共和制という時代性を強く意識しています。「世界で最も民主的な憲法」を掲げていたにもかかわらず、ヴァイマル共和制がファシズムへと強く傾斜していったのは私たちの知る歴史が示す通りです。
 レーヴィットはシュミットを批判するにあたり、補助線としてハイデガーの政治的な態度を批判の槍玉に挙げます。「ハイデッガーは、フライブルク大学生を一団となって投票場へ行進させ、そこで、まとまって、ヒトラーの決定への賛成投票を行なわせた。ヒトラーの決定への「賛成」が、かれには、「独自な存在」への賛成と同一事であると思えたのである。(レーヴィット1960)」とレーヴィットは書き付けますが、ここでハイデガー存在論的哲学が、なぜか批判精神に乏しい大学生を煽動しファシズムへと同化させる駆動力となってしまったことを示すことで、レーヴィットは、無や真空に直面して決断をするという過程が空疎なものであると喝破し、むしろ「決断」を行なわせている政治的・社会的・歴史的な状況へこそ眼差しを向けることを読み手に要請します。
 なぜハイデガーやシュミットの優れた哲学が、ファシズムとそれに伴う圧倒的な暴力をもたらしてきたのか。レーヴィットの論文に充溢しているのはかような問題意識です*1
 「機会原因論」という言葉一つとっても、以上のように複雑な背景事情というものがあります。そして、福嶋さんがレーヴィットの批判を「決断主義ロマン主義=機会原因論」批判と、矮小化しフレームとして活用しようとする際に、レーヴィットが問題としたであろう、政治的・社会的・歴史的な問題意識はどこかに抜け落ちてしまうのではないでしょうか*2




 私が思うに、福嶋さんに批判されている笠井さん・藤田さん・岡和田・渡邉さんの批評に共通することがあるとしたら、シュミットが用いたような哲学的なフレームのみに依拠して時代や社会、そして世界を理解するのではなく、なんとか個人や主体を規定している政治的・社会的・社会的な状況をも見据えようと努めているところにあるのではないでしょうか。それゆえ私は福嶋さんが言うようにレーヴィットが批判した対象たらんとするよりも、むしろレーヴィットの問題意識にこそ共鳴するものですし、各々スタンスや意見を異にする他の執筆者も、おそらくその点においては同じでしょう。それゆえ福嶋さんのご指摘は誤りであると断じることができます。
 そして、「要は物語や意味の縛りを捨てて、美やアイロニーと一体化しようとするロマン主義者であることは共通している」と福嶋さんはまとめられましたが、私としては、批判の俎上に上がった各々の論文のいったいどこが「物語や意味の縛りを捨てて」、「美やアイロニーと一体化」しているのかが、まったくわからないというのが正直なところです。なるべく距離を置いてみても、どうしてそう見えるのかがわかりません。例えば渡邉論文は映画の中からジャンクで片付けられていたものを再考しようとする試みですし、拙稿にしても、美学を取り沙汰するのはかなり迂遠な経緯を経ているのではないかと思います。
 加えて言えば、「物語性や思想性を放棄し、崇高のイメージで一発キメている作家を評価するという単純な評論」というところもよくわかりません。崇高のイメージというと、私はカスパー・ダーヴィッド・フリードリヒの絵画やヘルダーリンの詩をイメージしますが、『社会は存在しない』で主題的に取り上げられている題材ほど、そうした崇高さとは縁遠いものもないように思います。
 「四の五の言わずにとりあえず生に向けて決断する」というところも、「四の五の言」っている論文ばかりが『社会は存在しない』には収録されてるとお答えできますし(早急な論文などありましたか?)、「生に向けての決断」の下りには、拙稿に限定してもスターリングの『スキズマトリックス』(1985)をはじめとしたSF的なポストヒューマニズムをも強く意識しているつもりと答えれば、応答になると思います。
 「どのみち、今の日本では「物語」の選択はほとんど任意的・趣味的なものとなっている」というお言葉にも、疑問符が生まれます。本当にそうでしょうか? 例えば、私は北海道出身ですが、藤田論文にある「北海道左翼」とは無縁の環境(保守地盤)で育ちました。佐藤友哉についても、ほとんど面白いと思いません。にもかかわらず、藤田さんが佐藤友哉という対象を選択したのは「任意的・趣味的なもの」ではないことは理解できているつもりです。拙稿にしても、どのような状況が批評の原点となっているのかということについては折り込んでおります。
 私たちは「派手で実効的な「決断のゲーム」」をぶち上げていると批判されていますが、いったいどこが「派手で実効的な「決断のゲーム」」であるのかはまったくピンと来ないというのが正直なところです。いわゆる「大衆煽動」に用いられる類の「派手で実効的」なキャッチフレーズなど見当たらないように思います(笠井論文にある「歩く例外状態」? まさか)。また私の論文では「ゲーム」も射程に入れていますが、これは「決断のゲーム」などといった安易な文脈を拒否するという意味合いで用いたものです。



 本書の後半では、「大文字の社会ではなくマーケットの消費財に紐付けされた実存」=「ホモ・エコノミクス」について語られますが、その点については、さほど言葉を費やす必要はないでしょう。
 「マーケットのつくった実存文学」などは目新しいものではなく、『ドン・キホーテ』の後編を提出すればそれで済むことでしょう。
 「ホモ・エコノミクス」な視点が欠けていると批判されている拙稿も前半において笠井潔笙野頼子ネオリベラリズム批判などを援用する形で検討していますし、同じく批判されている笠井論文、藤田論文、渡邉論文もその点は折り込み済みであると私は読んでいます。そして、書評には出てきませんが、飯田論文はまさに「ホモ・エコノミクス」を主題とした評論でした。それに「ホモ・エコノミクス」は売れまくっている作家よりも、低賃金で重労働を強いられる人、不安定雇用者や福祉に頼って生計を立てざるをえない人たちにこそ相応しい言葉ではないかとも思うのですが……。



 応答としては簡単にすぎるものかもしれませんが、取り急ぎ、以上が私からの回答になります。

 私は福嶋さんが「ともあれ読者には是非、本書を一つの手がかりに、セカイ系の可能性について改めて考えをめぐらせてみてほしい」と、書評の後半で『社会は存在しない』を比較的好意的に取り扱って下さったことに感謝しています。繰り返しになりますが、書評の対象として取り上げていただいた「新潮」編集部のお心遣いにも、幾度感謝をしても足りないと思っています。


 むろん、ことの是非を判定するのは、福嶋さんの書評や『社会は存在しない』を読まれた各々の方々に委ねるべきであり、私が口を出すことではないのかもしれません。
 駆け出しの身にすぎないにもかかわらず、ブログという容易に人目に付く場所で応答を行なうのは、ひどく大それた行為に映るだろうということも承知しています。福嶋さんや「新潮」の関係者の方々の不興を買うかもしれないというリスクがあるというのはもちろんです*3


 にもかかわらず、『社会は存在しない』の欠点として提示された問題系について、福嶋さんが誤読されているとしか思えてならない部分が散見されたのもまた事実であり、それに応答しないほうがかえって不誠実だと思うに至りました。
 私には、福嶋さんの書評は『社会は存在しない』の右手を批判して左手を讃えるようなものと映りました。福嶋さんがなされているような片手落ちな理解をそのままで済ませてしまうことは、当の福嶋さんにとってもダメージが大きいものとなるのではないかと愚考いたしました。
 拙いながらも批評に携わる者として、それを黙ってスルーするよりもきちんと応答した方が、批評のシーンをより良いものとするよすがになるのではないかと私は判断した次第です。
 それゆえ、(レーヴィットについては重要なために詳しく解説をしましたが)、私としては、なるべく本質的な部分に的を絞ったつもりです。むろん、お忙しいでしょうから、この応答についての再反論を求めるものではありませんが、単なる揚げ足取りではないことをご理解いただければと思います。



追記:「ビーダーマイヤー」について、大蟻食さんにコメント欄でお言葉をいただきました。この点については、大蟻食さんのブログでも詳しく書かれている模様ですので、ご紹介をしておきます。
http://tamanoir.air-nifty.com/jours/2009/10/2009108.html
そういえば、橋川文三の『日本浪漫派批判序説』でも、「ビーダーマイヤー」を批評的な概念として使う考え方が提示されていたのを思い出しました。


 直接は関係ありませんが、「新潮」2009年10月号の鶴岡真弓さんの諏訪哲史ロンバルディア遠景』評は素晴らしかった! こちらもご紹介しておきます。

ロンバルディア遠景

ロンバルディア遠景

*1:シュミット自身、後に自らの理論を反省し、『パルチザンの理論』(1963)では、「友-敵」理論に批判的な修正を加えています。

*2:紙幅の問題で切り捨てられたと見ることもできますが、ここは最もそう「してはならない」部分でしょう。

*3:応答に費やす時間を捻出するのも大変なので、スルーした方が賢い選択であるだろうと、自分でも思います。今後もこのペースで応答できるかわかりませんが、できるうちにやっておきます。